「あざけりの叫びの中で救いは進む」   05.03.06
                            
ルカ23:1〜25

 最高法院から会衆がピラトのもとに押しかけました。
 そこで、人々は、イエスさまを死刑にしてもらうために力を
込めて訴えました。
 民衆もイエスさまを十字架につけろと叫んでいます。
 また、ピラトのもとに、ヘロデのもとに、再びピラトのもとに、
そして十字架に…。
 イエスさまを振り回している人間たちの姿があります。
 人々の声や行為がこの場面を支配し、イエスさまをも支配して
いるかのように見えます。

 しかし、イエスさまは人に支配されているのではありません。
 その人々の中に身を置きながらも、ご自身を神さまの御心に
従わせておられます。ご自身が十字架にかかり、罪人の
身代わりとなって死に、そのことによって罪と滅びから罪人を救う、
という神さまの救いの計画に身を置き続けておられるのです。
 ここでは、人々の騒ぎ立つ様子と、イエスさまの静けさが対照的に
描かれます。
 人の騒ぎではなく十字架の救いという一点を見つめておられた
ことが、騒ぎに振り回されないイエスさまの姿を生み出していたの
でしょう。
 イエスさまは、あざけりのその場に留まっておられました。
 イエスさまを支持してきたはずの民衆が「十字架につけよ」と叫ぶ
時も、その場におられました。私たちは、神の御子なる主イエスが、
その場から立ち去る力をお持ちであったことを知っています。
 天の軍勢を呼び、出エジプトの際にエジプトの軍隊を滅ぼした
ような天の力を振るうように命じて、人々を蹴散らすことがお出来に
なる方だと知っています。
 風や波を従わせることもお出来になる方でした。
 主イエスが、そのような力を振るわれたら、どうなってしまうの
でしょうか。
 十字架がなくなってしまい、救いの希望も消え去ります。
 しかし、人々の騒ぎや私たちの心配をよそに、主イエスは人を救う
ための十字架を見据え、そこに向かって、しっかりと進んでいかれる
のです。

 この場面にも、人々の姿に妨げられることのない、主イエスの堅い
決意があります。
 何としてでも私たちを救おうとされる主イエスの愛が溢れています。